本日をもって退社します。お世話になりました。
夏も終わりかけた9月末の木曜日の朝、佐藤拓哉は上司に短いメールを送った。悪戦苦闘の就職活動の末、ようやく決まった就職先に務めたのは、僅か半年。ろくな研修もなく、勤務初日から顧客の担当を任され、毎月80時間を超えるサービス残業の日々。週休2日とは謳っているが、休日にも頻繁に携帯に電話がかかってくるから休んだ気にはなれない。休日に電話に出る必要はないと考えて電源を切ったこともがあったが、休み明けに1時間近く怒鳴られるように叱られた。
始業時間である8時半より少し前に、会社から携帯に電話がかかってきたが無視した。すると今度はメールが送られてきて、社会人として常識に欠ける行為だと非難の言葉が綴られていた。こちら側からしたら、会社側の方がどうかしている。
しかし、どんなに会社側がどうかしていようとも、自分自身が会社を辞めたという事実は変わらない。突然辞めたものだから次の就職先は決まっていない。半年で辞めたとなれば、一筋縄では行かないだろう。
そんな現実から逃げたくなって遠くへ出かけたくなった。都心から離れた田舎。自然が豊富な場所。そう海が見える場所がいい。車の免許は持っていないから鉄道での移動になるか。
こうして今、拓哉は伊豆半島西部を走る西伊豆鉄道の普通列車に乗って松崎温泉へ向かっている。松崎温泉までは列車の始発駅である沼津から1時間半程度かかる。
「次は多比(たび)、多比です」
車掌の肉声によるアナウンスが車内に流れ、列車はトンネルに差し掛かる。ガタンゴトンという音を反響させながら進んでいく。トンネルを抜けると右手に港が見えてきた。左手には線路より高い位置に数件の民家が建っていて、奥に小高い山がそびえている。山と海に挟まれた小さな港町といったところだろうか。
多比駅に着くと車両の扉が開く。すぐに発車ベルが鳴り車掌が笛を吹く。乗る人も降りる人もいない。扉が閉まりかける。
その瞬間、駆け込み乗車をしてきた者がいた。小さな彼女は、なんとか列車に乗り込むと車内を見渡した後、拓哉の前に歩いてきた。そしてピョンと軽やかに飛んで向かいの座席に腰かけた。
拓哉は不思議でならなかった。拓哉が座っている場所は2人掛けの座席が向かい合って配置されているボックス席。車内に乗っているのは十数人程度で他に空いている座席はいくらでもある。自分と話でもしたいのだろうか。拓哉は彼女と目を合わせようとするが、彼女はすました顔でずっと窓の外を眺めている。雪のような白い髪に氷みたいな透き通った青色の目。拓哉はその美しい姿に見惚れた。
多比駅を発車した列車は引き続き海と山に挟まれた地形を多数の短いトンネルを通りながら進んでいく。
「まもなく伊豆三津(いずみと)、伊豆三津です。お出口は左側です」
車内アナウンスというものは拓哉が住んでいる東京ではほとんどの路線で自動音声が使われている。いつ聞いても同じ人の声、同じ音程、同じ速さ、同じタイミング。そして自分もいつも同じ時間の列車に乗って、ラッシュの人ごみにもまれながら会社に向かっていた。いつから自動音声が使われ始めたのか。拓哉は幼い頃、郊外にある祖母の家に行くとき、電車で向かっていたことを思い出した。その時は、車掌の肉声による放送だった。平日の昼間の各駅停車。車内はガラガラ。今乗っている列車と似ていた。
伊豆三津駅は西伊豆鉄道の中では比較的大きな駅のようで、車内の乗客の約半数が降りて、数人が乗り込んできた。窓から反対側のホームを眺めると壁にイルカの写真が使われたポスターが貼ってある。どうやら水族館が近くにあるようだ。
この駅から乗り込んできた初老の男性が、拓哉たちの隣を通るとき一瞬こちらを見た。きっと彼女の容姿が珍しかったのだろう。白い髪に青い目を持った者などそうそう見かけない。男性はそのまま車両の後方へ向かっていった。向かいの座席に座っている彼女は男性の視線など気にせず、相変わらず外を眺め続けていた。まだ列車に乗り続けるようだった。
拓哉は内心落ち込んでいた。会社がブラックだからといっても、半年で辞めたとなれば世間からこいつは逃げた、頑張れないやつ、という目で見られてしまう。「普通」の人なら、そのまま会社に居続けて地位をあげていくか、2~3年働いてから違う会社に転職するか。自分は「普通」の人が歩む道から外れてしまった。果たして同じ道に戻ることができるのだろうか。
列車は次の長井崎駅を出るとまたいくつかトンネルを通っていく。この辺ではみかんの生産が盛んらしい。車窓からは、まだ青い実を付けているみかんの木がいたるところで見受けられる。拓哉は彼女の様子を伺うが、彼女は退屈そうに大きなあくびをした。どうやらみかんには興味がないようだ。
「ご乗車ありがとうございます。次は伊豆戸田(いずへだ)、伊豆戸田です」
列車は東古宇駅を発車した。列車は徐々に登っていたようで、先ほどまで同じ高さに見えていた海が下の方に見える。少し離れた漁港には漁船が何隻か浮かんでいる。この駅を出ると列車は今までの海沿いから一転、森の中を進んでいく。スマホで地図を確認すると、列車はこの先しばらく山越えをして再び海沿いに戻るようだ。
拓哉が彼女の方を見る。彼女は眠くなってしまったようで、うとうとしている。しばらくすると身体を丸めて眠ってしまった。窓から差し込んできた優しい木漏れ日が彼女の身体を包み込む。拓哉には彼女が眠ってしまう気持ちがよくわかった。拓哉自身も眠気が催してきていたからだ。電車の揺れというのは不思議と眠りに誘い込んでくる。今乗ってる車両は古いからかよく揺れるのだが、座席がふかふかなのでその揺れをいい感じで吸収してくれる。少しして拓哉も彼女に続いて眠ってしまった。
「次は碧ノ浜(みどりのはま)、碧ノ浜です」
拓哉は車掌のアナウンスで目を覚ました。伊豆戸田駅を発車してまもないところのようだ。彼女は既に目を覚ましており、眠る前と同じ姿勢で外の景色を眺めている。
伊豆戸田駅を発車した列車は、トンネルを越えて左にカーブすると僅かながら速度をあげた。右手には再び海が見えた。今度は先ほどまでの海沿いとは違って周囲に道路や建物はなく、窓からは砂浜に波が寄せているのを間近に見ることができる。
ここにきて今までじっとしていた彼女が窓についた銀色のつまみを触り始めた。この銀色のつまみは窓を開ける時に使うものだ。窓の両端についたつまみを押しながら窓を持ち上げると開けることができる。自分で開けたことはないが、幼い頃、母と電車に乗った時にそうやって窓を開けてくれた。
彼女はつまみをしばらく触り続けるとこちらをじっと見つめてきた。どうやら窓を開けてほしいようだ。多比駅から乗車してきておよそ30分。ようやく自分と目を合わせてくれた。拓哉は嬉しかったが少々図々しいなとも感じた。とはいえ拓哉も意地悪ではない。彼女の小さい身体では窓の両端にあるつまみを同時に触れることすら不可能である。拓哉は窓を開けてあげることにした。まずは座りながら窓を開けようと試みる。しかしこれが中々重く、座ったままだと力が入らず持ち上がらない。今度は立ち上がって窓を持ち上げてみる。
すると窓が開いて潮の香りが車内に流れ込んできた。列車のジョイント音と波の音がより大きく聞こえる。拓哉は窓を1番上まで開ききったところで固定して再び座席についた。彼女は窓枠に手を置いて顔を近づけ、目を輝かせて水平線を眺めている。少し強めの風が彼女白い髪を撫でつける。拓哉も窓の外を見てみる。雲1つなく、目が痛くなるほど鮮やかな青色の空と海。素晴らしい景色だった。拓哉は心が洗われたような気分になった。
︎︎ 列車は土肥駅の手前で国道と合流してその次の駅、恋人岬駅に到着した。周囲に民家は一切なく、線路と平行する国道の反対側に「恋人岬」と書かれた駐車場の入口看板が設置されている。観光客向けの駅のようだ。この列車の乗降客はゼロ。それもそのはずで、今日は平日の木曜日。まともな勤め人なら今頃会社でせっせと働いている時間だ。
恋人岬駅を発車すると列車は平行してる国道と同じく、長いトンネルに入る。窓はまだ開けていたので列車の走行音がトンネルに反響して車内にも響く。
彼女はこの列車に乗ってどこまで行くつもりだろうか。彼女が乗車してきた多比駅を発車してから既に1時間近くが経とうとしている。終点まであと6駅あるが、最後まで乗るのだろうか。結果としてその答えは直ぐに出ることになる。
長いトンネルを抜けるとさっきまで同じ高さで平行していた国道は線路より低い位置を走っていた。さらにその下は谷底になって川がくぐっている。この路線は実際に乗ってみるとトンネルが多い。線路の際まで山肌が迫っている区間も多く見られる。地図を見ただけでは分からなかったが、西伊豆鉄道は海に近いのと同じくらい、山に近い路線でもあり、よくこんなところに鉄道を通したものだと感心させられた。
「まもなく宇久須、宇久須です。お出口は左側です」
次の宇久須駅が近づき、列車は減速し始める。同時に彼女は座席からぴょんと軽やかにジャンプして、床に下りた。そして一番近い扉の前まで歩いていった。どうやらこの駅で降りるようだ。結局お互いにひと言も話さなかったが、1時間も同じボックス席にいた仲である。いざ、いなくなってしまうと寂しくもなる。
「さようなら」
拓哉は彼女に別れの挨拶をした。彼女に向かって最初で最後の言葉であった。
「にゃーん」
彼女は低い声で短く鳴いた。
列車が完全に止まって扉が開くと彼女は走って降りていった。彼女はなんて言ったのだろうか。さようなら、お元気で...。声がやけに低かったので生意気だ、黙れ小僧...。いや、いくら考えてもわかるものでは無い。
彼女は猫なのだから。
「あの子、いつもこの時間にこの列車に乗ってくるんですよ。」
拓哉は急に座席の後ろから声をかけられた。伊豆三津駅から乗ってきた初老の男性であった。
「向かいの座席いいでしょうか?」
拓哉は咄嗟に向かいの座席に座っていいか聞かれてると判断し、伸ばした足を引っ込めた。
「どうぞ」
男性は先ほどまで彼女が座っていた向かいの座席に腰掛けた。
「突然話しかけてすいません。さようならと言ったのが聞こえたもので」
どうやら聞かれていたらしい。拓哉は少し恥ずかしくなった。
「今日はどちらからいらしたんですか?」
「東京から来ました」
「ということはこの列車には沼津から乗ってるんですね」
「そうです。おじいさんは伊豆三津から乗られましたよね」
「ええ。三津にはいつも病院に通ってまして、今日もその帰りです。病院から帰る時、いつも同じ列車を使うんですが、あの子も乗ってるんです」
「そうなんですね。それにしても人懐っこい猫ですね。他にも席が空いてるのにわざわざ人が座ってるボックスシートに座るなんて」
「人懐っこいのもありますけど、あの子は海を見るのが好きみたいでね。いつもボックス席に座ってる人の向かいに座って、窓を開けて貰ってるんですよ」
やはり彼女が向かいの座席に座ったのはしっかりとした理由があったようだ。人がいるところに行って銀色のつまみを触れば窓を開けてもらえると思っていたのだろう。
その後、初老の男性とは軽い世間話をした。男性は終点の一つ手前の仁科駅で降りていった。
「ご乗車ありがとうございました。まもなく終点、伊豆松崎、伊豆松崎です。お出口は右側です。この先の雲見、蝶ヶ野、石廊崎方面へは後続の列車にお乗り換え下さい。どなた様もお忘れ物ございませんようご注意ください」
列車はゆっくりとした速度で慎重に駅に侵入していく。拓哉は荷物をまとめて扉の前まで向かった。完全に停車すると大きなため息をついたかのようにブレーキの音がなって扉が開いた。
彼女との旅は拓哉にとってとても有意義であった。改めて考えてみると、猫が列車に乗って移動するなんて全くおかしな光景である。彼女もまた「普通」ではなかった。別に「普通」じゃなくたっていい。もし彼女が喋れたなら「自分がしたいように自分の道を進めばいい」とでも言うのだろうか。ちょっと考えすぎだろうか。そう思いながら拓哉は口元に薄い笑みを浮かべて普通列車から降りたのであった。
※このお話は「妄想鉄路第2号」で掲載したものを西伊豆鉄道の設定変更に伴って改変したものです。
令夏鉄路社(「妄想鉄路」を編集・発行するサークル)のホームページはこちら